「長期的に社会課題を解決できる人になりたい」と思った大きな転機
松浦 朋子さん(フリーランス 広報・プロモーション)
プロボノでの役割:プロジェクトマネジャー
参加プロジェクト:まちこらぼの課題整理ワークショップ(2016年)
ボケない大阪移住プロジェクト(2016年)
ウェブ制作会社やCM制作会社、テレビ局のグループ会社など、クリエイティブ業界で約10年勤めるなか出会ったプロボノとNPO。「プロボノが大きな転機になった」と話す松浦さんに、参加のきっかけや、ご自身のプロジェクト経験、そして5年後のいまについて、お話を伺いました。
キャリアの不安と、利他の心が芽生え始め、プロボノへ参加
プロボノに参加した2016年当時は、テレビ局のグループ会社でウェブサイト制作やアプリ開発のディレクターとして、デザイナーや技術さんと一緒にモノづくりをしていました。
組織は、年功序列で部長や課長などの管理職を目指すことが求められる中、私自身はディレクターとしてのキャリアに、この先どうなるんだろうという不安がありました。
何かできることがないかなぁ、と探していたときにサービスグラントを発見して、仕事を辞めずに参加できるのであればちょうど良いと思ったのが、参加のきっかけのひとつです。この先のことを考えたときに「ここで動かなかったら、いつ動くんだろう。ここで動かなきゃ」と思ったことは覚えています。
当時は大きなドラマやアニメの案件に関わっていましたが、組織と部署の間で板挟みになることも多く、なんのために働いているんだろうとか、自分のことだけを考えて仕事をしているのはどうなんだろうとも思っていました。
NPOとの接点はそれまで全くなかったのですが、NPOは人のために仕事をしているところ、なんとなくいいことをしているイメージがあって、関わることで私も何か変わるかもしれないと思ったのも、参加のきっかけでした。
全力で取り組んだプロジェクト
まちこらぼさんのプロボノは、団体内部・外部へのヒアリングと課題整理ワークショップを通じて、短中期的な計画と施策を検討するプロジェクトでした。
チームメンバーは大手企業に勤める人たちが多く、私だけ出社時間が11時で一人だけ時間軸は違うなと思っていました。
本業の中ではSWOT分析等はやったことはありませんでしたが、プロジェクトマネジャーとしてちゃんとしなくてはいけないし、報酬のないボランティア活動でメンバーのモチベーションをいかに保つかも難しいだろうし、どうやってやるんだろう?と思いながらも、とりあえず、全力で取り組みました。チームミーティングを全部録音して、ミーティングが終わったら自分だけのメモとして全て書き起こしたり。仕事は見て学べの環境ですが、プロボノは普段から接している人ではないので、その人のキャラや特徴がわからないですよね。
メンバーのことや言っている言葉をわかりたいし、ミーティング内容を理解してついていかなくてはと、めちゃくちゃ全力で、不安をかき消すためにやっていました。
プロジェクトの最初に、「私は課題整理や課題分析の仕事はやったことがないからわかりません」とメンバーには伝えて、必死になってやっていました。メンバーから「一生懸命やっていたまっちゃん(松浦さん)を見て、僕もやらなきゃダメだと思ってやっていた」と、プロジェクトの最後に言ってもらえたのが嬉しかったです。
大きな転機となったプロボノ経験
まちこらぼの後に、サービスグラントのメルマガで知った、都市間(東京から大阪)の移住モデル構築を目指す「ボケない大阪移住プロジェクト」に東京から2泊3日で参加しました。そのとき運営団体のNPO法人ハローライフの代表理事塩山諒さんから、「何かやりたいんだったら東京じゃなくて、地方がいいのでは?」と言われ、いままで出会ったことのない考えに衝撃を受けました。
プロボノをきっかけに「長期的に社会課題を解決できる人になりたい!」と思うようになり、プロボノへの参加が無ければ、今が無いくらい大きな転機になりました。
その頃に人事異動があって、今までしていた仕事とは違う部署に異動しました。もともとクリエイティブ業界に行きたくて、念願が叶い大学を出てからずっとこの業界にいたものの、転職を考えるようになりました。
「長期的に社会課題を解決できる人になりたい!」と思ったものの、「これ!」という解決したい特定の社会課題がない状況で、社会課題を幅広く扱っていることと代表の安部敏樹さんから学ぶことは多いだろうという直感もあり、プロボノとして「リディラバジャーナル」の立ち上げから1年関わることになりました。その間にPR会社に就職して、地域で頑張っている人を紹介するメディアの運営やプロジェクトの立ち上げに参加させてもらいました。
釜石との出会い、そして地域おこし協力隊へ
PR会社の当時の代表が、岩手県釜石市の起業型地域おこし協力隊「釜石ローカルベンチャー」の人とつながりがあって、「ローカルヒーロー寺子屋」プロジェクトを立ち上げました。地方の課題解決のために何かしたいと考えている東京の人が、協力隊6人の情報発信の右腕として関わる、今でいう関係人口のプロジェクトです。
情報発信の強化が必要という考えでプログラムを設計したものの、必ずしも協力隊6人の共通課題が情報発信ではないこともわかってきて、東京から見る地域の課題は妄想でしかないと痛感しました。
釜石に行き来しながら、東京のしごとバー(運営:日本仕事百貨)などで協力隊のプロモーションイベントの運営や広報ツールの作成も担当してく中で、「もう釜石に行こう」と思ってしまった瞬間がありました。
理由は三つあって、一つ目は、東京での生活から環境を変えたくなったこと。
二つ目は寺子屋プロジェクトで、現場を知らないと本当の課題は分からない、と思ったこと。
三つ目は、釜石で関わった人たちがキラキラして見えたこと。
それで協力隊として自分が釜石に入ることにしました。
ふりかえると、プロボノを始める時は「このままでもいいのだろうか」とすごく燻った思いがありましたが、プロボノを始めてからトントントンと自ら動くようになっていきました。
本業として社会課題に取り組んでいく難しさ
協力隊として、2018年から2020年まで「地域ブランディング」をテーマに釜石で活動しましたが、何から話したらいいかと思うくらい学びがたくさんありました。
最初、東京での仕事スタイルや価値観のまま釜石に行ったこともあり、うまくいかない場面もありました。地元の人たちは仕事だけで過ごしてるわけじゃなくて、生活があっての仕事で。誰かと一緒に協力して進めないといけないのに、当時の私にはその考えがなかったと思います。
協力隊の1年目の秋くらいから、甲子柿(かっしがき)の販促やイベントを中心に活動していました。甲子柿は、渋柿を煙で1週間燻して渋抜きする釜石の特産品です。
2年目からは収益性を高めるために、甲子柿の生産者になりました。またラグビーW杯があった年で、震災復興支援で釜石に入っていたロート製薬さんと一緒に、フローズンフルーツバー「甲子柿パレタス」を限定商品として開発しました。
2年目の後半は、甲子柿に関わる女性メンバーを集めて商品開発をしたり、県や市と一緒に事業をしたり、地域の方と色々と経験させていただきました。3年目はパソナ東北創生さんと一緒に、釜石市の情報発信やPRをYouTubeで行っていました。
協力隊の任期を終えた今は、釜石市にいながら他都道府県で活動する企業や団体の広報部のような立ち位置に自分が入って情報整理を手伝ったりしています。中長期のビジョンや経営を一緒に考えて内容をちゃんと固めてから、広報ツールの選定や制作に入る場面が多くあるので、これまでクリエイティブの部分だけの関わりが多かったですが、上流から話をする機会が増えました。
本業があってのプロボノという関わり方ではなく、本業として社会課題に取り組んでいくのは結構難しいと感じています。例えば団体側に予算がないときにどこまで出来るのだろうか、どうすればいいのだろうという壁にはぶち当たっていますが、体系的に非営利団体の資金調達についても学びたいので、認定ファンドレイザーの資格取得を目指し、双方にとって良いやり方を模索していければと考えています。
――これからプロボノを始める方にメッセージをお願いします。
プロボノをしていた時、私はとにかく必死だったという記憶が強いです。プロジェクトをやりとげなきゃという感覚も大切だとは思いますが、モチベーションを保つためにも、集まるメンバーの個性も違うから、思い切り楽しみながら取り組むことが一番だと思います。
▼プロボノでのプロジェクト参加へご関心をお持ちになった方は、こちらのページも併せてご覧ください。
▼プロボノ参加者向け説明会を随時行っています。以下より日程をご確認ください。
※掲載内容は2021年9月時点の情報です。